日本軍は、装甲列車と装甲列車が対決する戦闘を経験したことがある。
満州事変が始まった翌日(1931年9月19日)、関東軍(日本軍)は、満州鉄道の機関車に鋼鉄板を張りつけ、臨時の装甲列車(走行機関車)を作成した。
一方、張学良(中華民国)が率いる軍隊は、本式の装甲列車を持っていた。
両者の間では、たびたび戦闘が行われることとなった(山海関~奉天の間)。
翌年、日本陸軍は装甲列車の陣容をさらに大掛かりなものに編成し直した。
編成後の装甲列車は、先頭から「警戒車―重砲車―軽砲車―歩兵車―指揮車―機関車―炭水車―補助炭水車―材料車―歩兵車―重砲車―軽砲車―後尾警戒車」の12両(13両?)編成で、全長167.5m、総重量694トン。
これに兵員や弾薬を積むと700トンを超えた。
装甲も厚く、搭載された重火器の量も豊富だったため、全体の長さも考慮すると、駆逐艦が陸上を走っているのと同じようなものだった。
また、それほどの重量であったにも関わらず、平地では時速60キロで走行し、坂道でも40キロで走行、前進や後退も自由自在だった。
さらに、満州鉄道とシベリア鉄道では、線路の幅が異なるため、そのままではもう一方の路線に乗り入れることはできないが、陸軍は別の路線に入るための車輪もしっかりと用意していたため、自由自在に列車を走らせることができた(2~5時間で交換可能)。
2年後(1934年)、さらに改良が加えられた。
94式装甲車と呼ばれるもので、機関車はさらに大型で強力になったが、なぜか8両編成となり小型化した。
ちなみに装甲列車は、千葉や千田沼の鉄道連隊にも配備されていた。