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【歴史】EXPO'70狂騒曲 その1 開催までの軌跡

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EXPO'70狂騒曲 その1 開催までの軌跡

万博は、大阪で開催される予定となっていたが、敷地面積を確保することが難しかったため、琵琶湖を埋め立てて開催する案が出ていた。

万博の会場には大阪府吹田市が選ばれた。
当時は一面に竹林が広がっていたため、地元の人たちはタケノコの缶詰を作っていた。
ウサギ狩りが行われていたこともある。

住宅地でもあったため、立ち退き問題が発生した。
政府は、強制収用を命じることができる「土地収用法」という伝家の宝刀を持っていたが、「万博用地」には適用できなかったため、「跡地に公園を作る」という名目で「土地収用法」を適用させた。
そのため、同地は今でも公園である。

最後まで立ち退きに抵抗したのは市の職員。
職員が所有する土地の実際の面積と、登記上の面積が異なっていたため、話し合いが行われていたが難航したため、強制収容が適用されてしまった。

買収価格は一戸800万円。
関東の土地付き住宅の値段は300~600万円。
農家300戸には、合計で100億円が支払われた。
当時、成金生活をはじめた農家の人々の豪壮な姿が紙面を飾った。

ひとつ前のモントリオール博の話。
遊具に乗った80人の乗客が、地上70メートルの高さで孤立した(2時間)。
会期全体で、最終的には、死者20名、病人40000名を出した。

当初、各パビリオンは、各国が自費で製作することになっていた。
しかし、参加を表明する国がなかなか現れなかったため、日本側がいろいろと負担することが決まり、参加を表明する国が少しずつ出てきた。

しかし、見返りを要求されることもあった。
アルゼンチンからは、牛肉の輸入を参加の条件とされた。
葉タバコの買いつけや、水道の敷設や、学校の建築を求める国もあった。
一度は参加を表明したものの、中東戦争のあおりで、参加を見送った国もあった。

1970年に開催するので、70ヶ国集めるという、ダジャレのような悲願があった。
しかし71ヶ国目が参加を表明したので、ダジャレは成立しなかった(最終的には、77ヶ国が参加)。

テーマは「人類の進歩と調和」。
当時の調査によると、テーマについて「何も考えなかった、知らなかった」が全体の47%を記録。

万博のシンボルマークは桜。
五つの花びらが、世界五大州を表している。
しかし、同様のデザインがすでに存在していたという問題が浮上し、特許庁が調査。
図案はすでに世界各国へ送られていたため、黙認された。

入場料は、大人800円、小人400円。
家族4人が入園したときの遊園地代、食事代、おみやげ代は1万円になると試算された。
当時の月給は5万円。

開催直前の1970年(昭和45年)1月には、業者の思惑から、万博周辺の物価が急上昇した。
タマネギ、ジャガイモは、10日間で2倍に値上がりした。
海産物の値段も大幅に上昇、タクシー、スポーツ紙、靴磨き代も上がった。
ホテル、バスも軒並み値上がりした。
東京オリンピックのときも、野菜は40%値上がりしていた。

北海道や東北の観光地は、万博の影響で観光客が減るのではないかという危機感があった。
静岡県の温泉旅館街では、春の予約数が3割減少した。
青森県では、約10万人が万博を訪れると試算された。
約50億円が県外で消費される計算となるため、「買い物は地元で、関西ではみやげを買わない」というキャンペーンが思案された。

パビリオンを建築する人数は、圧倒的に不足していた。
東京の業者が、賃金を吊り上げ、工員20名を確保したところ、東京駅前で半数が姿を消した。
他の業者がさらに高い賃金で、工員を買収したものとみられている。

万博会場の目の前で行き倒れになった人がいる。
その人物は救出されたが、人手不足に悩んでいた飯場の幹部がやってきて「その男をくれ」と言った。

また、建築業にたずさわる者が多数集結したため、安宿の値段が倍に値上がりした。
そのため、そこを根城にしていた人々は外へ追い出され、路上死することもあった。

会場のお祓いにはヘリコプターを使用。
神官が空中から米と塩をまいて、会場を清めた。
また、千羽鶴もまかれた。
参列した外国人の声「ナンデスカコレハ」

万博建設のために、連日2500台のダンプカーが往来した。
道路は舗装されていなかったため、騒音や砂煙が無数に発生した。
会場設営により、すみかを失ったネズミや野犬が周辺へと散らばった。
子供が犬にかまれたとの報告もある。

万博開催を記念して、プラチナメダルが発売された。
1個10万円。
2万個が生産されたが、全部売れた。

万博博記念百円硬貨は、3000万枚製作されて、発売当日に完売した。
10日後には、1個600円で販売されていた。

会場には、昭和15年に中止になった「起源二千六百年記念日本万国博覧会」のチケットでも入場できることが決定した。
しかし、昭和15年万博チケットの方が価値は高かった。

ホテルは、3か月前のキャンセルで、宿泊代金の50%ものキャンセル料が取られた。

関西の宿泊施設の部屋数は約11万。
来場者に必要な部屋数は約16万。
そのため、会場付近には簡易宿泊所が林立した。

プレハブ小屋を、畑ややぶの中に作ったため、衛生状態は良くなかった。
洗面所、食堂、浴室は共同。
利用者は、1日4000人。

京阪神に住む人々が受け取った、その年の年賀状には「宿を頼む」「案内よろしく」と書いてあった。