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【歴史】EXPO'70狂騒曲 その2 ついに開催された万博

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EXPO'70狂騒曲 その2 ついに開催された万博

開園前日の徹夜組は40名。
先頭は、日本の青年と、シカゴから来た青年。
二人はどちらも、自分が先頭であると主張した。

1970年3月15日、ついに万博が開催された。
開園時、入場券売り場では、お札が乱れ飛んでいた。

特別な日であるため、着物で万博を訪れる人もいた。
その女性は、開園後、他の人たちが走っているのを見て、自分も走ろうと思い、草履を脱ぐためにかがみこんだところ、後ろから突進され、額に傷を負った。

また別の女性は、将棋倒しで倒され、足の骨を折った(全治2か月・3月22日)。

開園2日目は雨。
肌寒かったため、サンドイッチ自慢の店のうどんが飛ぶように売れた。
サンドイッチは売れなかった。

動く歩道は大人気だった。
しかし歩道の速度が速かったため、事故が起きた。
動く歩道の降り口で人が倒れたため、緊急停止したところ、乗っていた乗客500人が将棋倒しになり、42人が重軽傷を負った(3月26日。30人説、75人説もある)。

歩道の速度と、ベルトの速度は、若干狂っていた(気温や、乗客の数により、速度が増減していた)。
この歩道の速度と、ベルトの速度の差に戸惑った乗客が転倒し、けがを負った(4月9日)。

別の日、動く歩道は、蛍光灯のコンデンサが過熱され煙を吐いた(3月16日)。
また別の歩道では、蛍光灯から出火した(3月26日)。

雨対策として、協会側は1万本の傘を用意していた。
しかし、みんなそれをお土産として持って帰ってしまったため、紛失が絶えなかった。

コインロッカーは1回100円。
コインロッカーを見るのは初めてという人が多かった。
使い方がわからず、隣の投入口に100円玉を入れて荷物を入れてしまい、そのまま荷物が盗難されることもあった。

会場には、車いすが400台用意されており、車いすの人は、優先的にパビリオンなどに入場することができた。
そのため、健康なお年寄りを車いすに乗せ、同伴者(家族)ごと、各施設を優先的に回る人たちなどもいた(確信犯)。

親子でチャイナ服を着て、「日本人デハナイ、日本語ワカラナイ」というフリをしながら、列の割り込みを繰り返す人たちもいた(確信犯)。

迷子を装い、列を無視してパビリオンへ入場した子供もいた(確信犯)。
その子は、アメリカ館で出会ったアメリカ人に「ハロー」と言ったら、物乞いと間違えられたのだろうか、お金をもらった。

コネで人気館に入ることもできた。
月の石を展示していたアメリカ館は、とても人気があった(たいてい4時間待ち)。
ある日、開場とともにアメリカ館まで走り、一番乗りで駆けつけた人がいたが、なぜかすでに200人が並んでいた(内部の人間による犯行)。

迷子の数は227人(初日)。
このころの子供は、迷子になっても泣かなかったため、「迷子になったの?」ときいても「ちがう」と反発された。

でも実は、子供の迷子よりも、大人の迷子の方が多かった。
子供の迷子が見つかる確率は100%だった。
しかし大人は、自分で勝手に帰ってしまうため、見つかる確率は10%以下だった。
また女性の中には、夫に黙って万博に来ていたため、迷子になっても、連絡先を頑として教えない人もいた。

会場内では、原則として呼び出し放送は行われておらず、「人道上由々しい問題があると判断される場合のみ」緊急呼び出しを行うことになっていた。
呼び出しの基準は、4親等以内の人の生死にかかわるもの。
呼び出し案内の中に、「不幸」という言葉が入っていたら危篤、「ご不幸」という言葉が入っていたら死亡という意味だった。
しかし、この内規を知った人々の中には、わざと「危篤」「死亡」という言葉を使って、緊急呼び出しを行ってもらっていた(確信犯)。

洋式トイレを初めて見る人も多かった。
みんな使い方がわからず、適当に処理した。
男子トイレ、女子トイレのマークの意味も分からず、みんな好きな方のトイレを使用した。
ある男子は、男子トイレで立ちションするおばあさんの姿を見た。

ガードマンは不足していたため、数多くのアルバイトが雇われていた。
アルバイトの品質は悪く、現金輸送車を襲撃したり、エキスポフラワー(入場管理の女性)のナンパに失敗し、エキスポフラワーを殴ったりしていた。

警備会社は、万博側から、1人当たり12万円をもらっていた。
警備会社は、ガードマンに、1人当たり4.5~5万円を支給していた。
また警備犬2頭が配置されており、夜間の警備を行っていた。

警備副隊長の談話。
「日本人は観客ではなくて、バッファローです。今後の警備は猛牛対策ということにしなきゃおさまらないと踏んでいます」

当時の資料。
「開門直後の20分間の様子は、バッファロー大隊が轟音を立てて走り回る情景」で、「橋自体が揺れ動く」

万博内ではストライキも発生した(8月25日)。
発生したのは自動車館。
自動車館で働くホステス(と呼ばれていた)たち50名が「スト決行中」というゼッケンをつけ、自動車館の呼び物であるカートを占拠した。

彼女たちの要望は退職金。
子供をカートに乗せるために自動車館を訪れた人々からは野次も飛ばされた。
その後、警察沙汰となり、彼女たちはしぶしぶストライキをあきらめた。

新幹線で万博を訪れる人も多く、初めて新幹線に乗る人も多かった。
当時、終点は新大阪駅だった。
グリーン車も通勤電車並みの混雑だった。

個人の声「初めて新幹線に乗って食堂車でマズイスパゲッティを食ったことを覚えています」

個人の声「新幹線に乗るときに着るために真っ白の新しいスーツを一着、持って行った。で、着たのはこの時きりだった」

新幹線に乗ったことをクラスで自慢する子供もいた。
万博グッズを見せびらかす子供もいた。
月の石を見たと自慢する子供もいた。
行ってもいないアメリカ館の話をして自慢する子供もいた。

学校を休んで、万博を見に行く子供もいた。
また、会期中、一度も万博を訪れることができず、悔しがっている子供もいた。
万博会場に着くと、母ではない女性が父を待っていて、父と親しげに会話する様子をじっと見ていた子供もいた。

旅行代理店のキャッチコピー「国内でできる海外旅行」

万博を訪れる人々の服装は様々だった。
消防団の団長は、消防団員を引き連れて万博を訪れたとき、消防団長の服を着ていた。

テンガロンハットで万博を訪れる人も多かった(当時の流行)。
洋服を新調して訪れる家族もいた。
パンタロンにシャツで訪れる人もいた。

宿泊場所も様々。
近隣に宿をとれなかった人は、姫路に泊まった。
京都大学も泊めてくれた。
プレハブ小屋に泊まった人は、「畳と壁しかなかった」と言った。
ホテルに泊まった人も、ユニットバスの使い方がわからず、途方に暮れていた。

北海道から、万博を見るために家出してきた子供がいる(3月19日~21日)。
家出したのは、11歳と12歳の男子。
青森から、北陸線まわりの列車に無賃乗車して、万博を訪問、のちに保護された。

大阪市内で寿司を食べた外国人旅行者。
代金が高すぎるからと、店側と喧嘩になり、警察沙汰となった。
日本人の感覚から言えば普通の値段だったが、外国人は「自分の国だったら、その料金で箱いっぱいの魚が買える」と主張。
結局、店側が半額にすることで、折り合いがついた。

長距離移動、環境の変化などについていけず、子供は各所で嘔吐していた。

長時間並ばなくてはならない、アメリカ館とソ連館の2つを見ただけで日が暮れた。

万博開催中、万博協会は水道料金を滞納していたため、送水が止まりそうになっていた。

夏には、急な階段200メートルを駆け上った男性(65)が心臓麻痺で亡くなった。