(2020/01/13 新規)
明治政府は、国民に名字を名乗ることを許したが、これは四民平等をねらったものではなくて、徴税と徴兵を円滑に行うためだった。
明治3年、政府は国民に名字を名乗ることを許した。
しかしこれは届出制であったため、頭のよい国民は、名字を名乗ったら損だと思い、届け出なかった。
政府は、徴税と徴兵を円滑に行おうと思っていた矢先に、国民の方から反発を受けてしまったので、業を煮やし、明治8年に、名字を名乗ることを義務化した。
とはいえ、徴兵制には抜け穴があり、家督相続のため他家へ養子に行ったものは、徴兵を免除される規定があった。
そのため養子に行くものがあとを立たず、政府は、そちらの方でも期待を裏切られた。
ちなみに徴兵制は、明治5年から始まっている。
また、養子により徴兵を免除された者たちは「徴兵養子」と呼ばれた。
(2020/02/18 追記)
明治8年2月に、平民もすべて名字をつけなければならないとする法律が出たが、法律の施行を要求したのは陸軍省だったため、人々は徴兵を円滑に行うためだということをすぐに見抜き、従うことはなかった。
それに業を煮やした戸長*1役人は大工を集めて、名字の出ていない家の戸口に、勝手に表札を打ちつけ、勝手に名字を作っていった。
しかも、嫌がらせ的に変な名前をつけていったため、とある女性は「腰巻とく」(現代風にいうと、パンツを脱ぐ)という名前をつけられてしまった(ネット情報によると、その後、改名騒ぎとなっている)。
その後、人々は、あの手この手で懲役を逃れようとした。
戸主になれば兵役を免除されるため、父親が隠居し、長男へ家督を譲る家庭が続出した。
その後、父親が60歳以下の場合は、隠居しても兵役を免除しないということになった。
すると、60歳以上の人間がいる家庭との養子縁組が続出した。
また、60歳以上の老人の名前(戸籍)を、100~200円で売りに出るものも出てきた。
また、学生は兵役免除の恩典が受けられる、といった誤った情報が流布されてしまったため、入試の倍率が一気に跳ね上がった。
*1:明治時代前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者のこと